さよならを言えなかった中原佑介さんへ

河口龍夫

誰にでも、自分より早くは死んでほしくない人がいるものである。私にとって中原佑介氏は、まぎれもなくそのひとりであった。

中原氏の訃報を突然知り、私の心にはかりしれない空洞が生まれ、その空洞を埋めるがごとく涙がとめどなく溢れ出た。<生という関係>が<死という無関係>に取って代わる残酷さを思い知らされた。私は、この残酷さを芸術は救済できるのかと自問した。そして今、悲しみを超えて、芸術の現代と未来を救済するような氏の素晴らしい業績を語り継がなければならないと思い直している。

中原氏は私と同郷の神戸生まれ。京都大学理学部在学中、ノーベル賞受賞者である湯川博士に物理学を学びながら、一見畑違いと思われる美術評論を始めた。美術評論家の登竜門である美術出版社主催の芸術評論賞に「創造のための批評」で一席入賞し、以後一貫して美術評論家として、文字通り「創造のための批評」の確立へ邁進された。その評論はわれわれ美術家に表現と創造への刺激と活力、思考と想像力を与え続けた。

氏は、文学性を切り離した美術批評の確立に努力された。物理学で鍛えた優れた思考力を生かし、情緒的ではなく理論的な、明快でわかりやすい、作品の本質を鋭くついた評論の確立に成功した。それは「創造を超える批評」に及んでいたと思う。

またパリ、サンパウロ、ベネチアビエンナーレといった国際展のコミッショナーを務め、「不在の部屋」展(1963年)や第10回東京ビエンナーレ「人間と物質」展(70年)など斬新な企画を展開し、活躍した。特に「人間と物質」展では日本で初めて国際展の単独コミッショナーを引き受け、ユニークな視点で世界から40人の芸術家を、インターネットも携帯電話もファックスもない時代に、批評家中原佑介の眼と足で人選。いまだに国際的にも評価の高い、優れた企画展を実現させた。そのひとりに選ばれたことは、私にとって運命的な出来事であった。

「ナンセンスの美学」(62年)「見ることの神話」(72年)「人間と物質のあいだ」(75年)「大発明物語」(75年)「現代美術」(82年)など著書も多く、美術界に与えた影響は大きい。私も中原氏とのコラボレーションによって生まれたブック・イン・ブック「関係と無関係―河口龍夫論―」(2003年)を出版してもらい、幸運であった。

一方、中原氏は、京都精華大学長、水戸芸術館総監督、美術評論家連盟会長、兵庫県立美術館長を歴任された。兵庫県立美術館長に奉職されている時に「河口龍夫 見えないものと見えるもの」展(07年)が開催され、開会のあいさつと対談をしていただき、サブタイトルと同じ題でテキストを書いてくださった。それが、私の作品について書いていただいた最後の評論になってしまった。思えば中原氏も、「見えるもの」に立脚しながら「見えないもの」を言葉にし続けたのではなかろうか。

美術と言葉を見事に関係させた中原氏は、私にとって美術家としての育ての親であり、芸術の海の羅針盤であった。中原佑介という巨星を失い、痛恨の極みである。感謝をこめ合掌。

(神戸新聞(2011年3月17日朝刊掲載)より依頼のありました追悼文を掲載いたしました)