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感覚の解放−河口龍夫インタヴュー


三つの個展の関係

【浅井俊裕氏(以下浅井)】
97年の千葉市美術館での個展、この水戸での展覧会、そしていわき市立美術館での個展と、美術館での個展が続いているわけですが、それぞれの美術館でのテーマと、今回の水戸での展覧会が、河口さんの作家としてのライフワークのなかで、どのような位置づけになるかということをお開かせください。

【河口龍夫氏(以下河口)】
昨年、千葉市美術館で開催して、今回は水戸芸術館で、その後いわき市立美術館でと続くわけですが、それぞれまったく別仕立ての個展をやるんですが、僕の中には全体として繋げていく大きな展覧会という考えが片一方にあるんですね。そのいっぽうで、それぞれの美術館の学芸員の考え方があって、展覧会というのは僕だけによって実現できるわけではなくて、僕と学芸員との、あるいは美術館とのコラボレーションによって実現できるということですね。ですからそれぞれの位置づけは僕自身が決定したということではなくて、僕との話し合いの中でそれぞれの美術館がどういう風に展覧会をまとめるかということが基本的な考え方だったと思います。千葉市美術館では、藁科(英也)さんという学芸員の方が担当で、「関係―河口龍夫」というタイトルでやりたいということで、作品を会場の都合とかコレクションした僕の作品の披露という意味も含めて、70年代と近作、それと未発表の新作、それもとくに千葉に関係したオオガハスを使った作品でやるという三つの軸でまとめたんですね。今度の水戸芸術館での展覧会は、「封印された時間」というサブタイトルが示すように、そういう視点で作品が選ばれてます。水戸芸術館では浅井さんが担当して1990年代、つまり90年から98年の作品が展示されます。先ほど言いましたように、「封印された時間」ということで、それぞれがそういう思惑で見ることができるような全体のコンセプトでまとめているということです。というか、選んだ作品の統括から引き出されたキーワードが「封印された時間」であったといった方がふさわしいかもしれません。いわき市立美術館では水戸よりも年代的に幅広く、70年代と80年代も含めた作品で構成するつもりです。いわき市立美術館は平野(明彦)さんという方が担当なんですが、それぞれの学芸員の方の考え方があって、その考え方が僕の作品の決定に大きな影響を及ぼしていて、それぞれが私の違った面での展覧会を形成しようとしていると思います。
  でも、このように作家自身がどういう展覧会かということを話すということは、展覧会を見る人になんらかの指示を与えるような気がして、そのことが懸念されるんですね。作品自体は自由に見てもらったらいいし、「封印された時間」というサブタイトルに縛られる必要はないし、観客というのはその言葉からさえ自由に見てもらったらいいと思うんです。作家の言葉というのは作品や、展覧会にとって非常に重要視されるんですけれど、むしろそれは参考にする程度で、あんまりそれに従って見るということは、僕はしてほしくないと思うんですね。そういう意味で、こういうインタヴューをして観客の人に見てもらうということが、ふさわしいかどうかはちょっと分からないですね。できれば、千葉市美術館での個展はもう終わってしまったんですが、水戸芸術館、いわき市立美術館を含めて全体として見ていただければ、ありがたいかなと思っています。

「関係」というキーワード

【浅井】
今のお話しの中で、「関係」という言葉が出てきました。この言葉は河口さんの制作のキーワードになってますが、これを作品のテーマにしていこうと思われたのはいつ頃からですか?

【河口】
具体的にタイトルになって現れたのが、1970年ですね。「京都アンデパンダン展」の時なんですけど、出品用紙にタイトルを書くわけなんですが、その用紙をコピーしておいてから出品料と一緒に受付に渡すと領収書をくれるわけです。要するに展覧会の手続きそのものを作品として並べた訳ですね。手続きそのものを一つの「関係」として並べて、出品した作品というのは他には何もない。つまりあるといえば、その出品手続きの用紙のコピーですね。それが最初ですかね。それで「関係」というのは目に見えないんですが、どういえばいいのか、「関係」というのはその物質そのものにあるのではなくて、ある物とある物、ある物とある人、そういうものが何らかの形で関係しあったり、関係が現れてきてまた消えるわけですね。そういう意味では、創造すること自体を、関係自体を創造することと、芸術を結び付けていけばかなり新しい芸術表現ができるのではないかと思います。そして「誕生」と「死」ということを一つの関係として捉えることで、美術以外のジャンルのもの、今回の場合は化石もそうですし、新聞もそうですが、そういう物と芸術を関係づけるということで無眼の可能性が出てくるのではないだろうかと思うわけです。けっして関係そのものを表現するのではなくて、関係を実在させていくという、目に見えるようにするとか、感じられるようにするとか、必ずしも関係というのは目に見えないですから、目に見えないものを芸術の文脈に引き寄せるということができる可能性を秘めていると思うんです。そういう意味で、一つの世界を切って行くキーワードとしては、非常に都合がいいかなと思っています。新しい関係をどうやって作ろうかなということだと思うんですね。

【浅井】
目に見えないものを作品化するということでは、最近はエネルギ一、特に生命エネルギーを取り上げていて、それもやはり新しい関係を作り出そうということなんでしょうか?

【河口】
そうですね。ただ、生命エネルギーというのは、例えば物質の持っている色々なエネルギーがありますよね。そういうものと違うのは、僕も一つの生命体だし、生命エネルギーというのは非常に神秘的なんですね。生命エネルギーという目に見えないものをどういう風に感じ取ることができるか、それを視覚だけではなくて色々な方法でできるかもしれないのですが、僕の意識の中ではエネルギーというのは今まで関わってきた電気エネルギーなど様々なものがあるのですが、僕自身が分からない生命エネルギーに関しては、分からないままむしろ分かることを放棄して関係の場に提示するという意識を持ってますね。

【浅井】
千葉市美術館の出品作品の中には、河口さん自身の過去の作品を銅で、覆って新しい作品にするというもの(「関係―千葉の蓮」)がありました。前の作品が次の作品に関係してくるというものですね。そういう意味では、関係は時間的にも無限に続くわけですね。

【河口】
そうです。あの作品はそのことを意識していて、現在の作品が過去の作品と関係してはいけないというのではなくて、過去の作品がむしろ現在の作品と関係してそのことによって新しい作品が生まれてくる。いわき市美術館の個展ではもっと徹底したものを出そうと思っているんですけど、それは過去の作品の写真だけで新作ができているという、ただ、過去の作品の写真は鉛で種子と共に封印されていて見えないんですけれども、それが90点ぐらいで構成されるのです。例えば将来、僕の身体があまりいうことをきかなくなっていて、願望というかイメージとしていえば、昔の、たとえばどの作品でもいいんですけど、それを絵に描く。そういう場合は僕の作品を僕が絵に描いているんで、新作なのか、旧作を単に絵に描いているだけなのか、そういうことも一度はやってみたいですね。「関係」というのをタイトルに使ったのは先ほどもいったように「京都アンデパンダン展」なんですけど、例えば初期の絵画の中に円と円とを結んでいて片一方の円は見えないとか、そういう相関関係のような意識が片一方にあって、鏡の作品にもイメージとオブジェというか、虚像と実態の関係というのがありますし、「グループ〈位〉」ではすべてが「関係」という言葉では括れないかもしれないけど、「関係」という視点で見ることができるような僕自身の中での関心の芽生えというはよくみればあるかもしれないですね。

原点としての「グループ〈位〉」

【浅井】
今のお話しに出た「グループ〈位〉」について、簡単に説明してください。

【河口】
「グループ〈位〉」の結成は1965年ですね。僕の生まれた神戸で結成しました。いちばん最初は神戸の国際会館というところのギャラリーでそれぞれの作品を展示するという形式の展覧会だった。あわせてシンポジウムもやったんですけれど、そのあと岐阜の長良川で「アンデパンダン・アート・フェスティバル」というのがあって、その時は野外の会場なんですが、彫刻的、あるいはオブジェ的作品が展示されている中で、大地というか河原を掘るということをしました。9人のメンバーが、ただ延々と穴を掘って埋めるということをしました。穴を掘るというのは多分色々な目的があると思うんです。たとえばゴミを捨てるとか、何かを掘り出すとか、そういう目的のための穴じゃなくて、穴自体を実在させるための、人類が始まって以来初めて穴が存在した。つまり、穴を目的として実在させたとそう思っているんですけどね。言い忘れましたけど、「グループ〈位〉」の位というのは単位の位とか位置の位とか、位相の位とかそういう言葉から出てくるので、メンバーのそれぞれが「グループ〈位〉」のひとつの位置を占めてるという発想ですね。それから様々なことをやるんですけど、例えば「非人称展」というのをやりました。絵画というのはそれぞれ人によって絵が違うんですけど、全く同じ絵画を描いてそれを展示する。一人が二点同じ絵を描く、そういうことをやりましたね。それから「寄生虫」展というのもやりました。

【浅井】
河口さんはもともとは多摩美術大学の絵画科専攻ですよね。絵画から、「グループ〈位〉」のような絵画を越えた幅広い芸術活動に移っていく動機は何だったのでしょう。

【河口】
僕は画家になりたかったんですよ。美術大学にさえ行けば、画家になれるだろうと。それで在学中に絵画をやりながら、片一方で絵画という形式の中に収まらない表現というのがあるのではないだろうか、そういう訳で表現というのは何も一つの形式にこだわることではないんだというのを、その片一方で自覚していたんですが、絵画が好きだったものでそれをやっていて、「グループ〈位〉」を結成して当時9人の青年が結成した訳ですけど、非常に精神的な飢えを持っていて、その飢えというのは、本を読んだり、映画を見たりとか、色々なことで飢えを癒そうとしても癒せなくて、そういう人たちが集まった訳です。「グループ〈位〉」の結成が、絵画からそれ以外の芸術へ移行していくきっかけですね。それで穴を掘った時に、限りない自由を味わった訳ですね。超自我的自己解放というか、しかも9人のメンバーが同ーのことをしているという共同体というのかそういう心地よきもありました。ただ、片一方で限りない不安、ようするに自分が大学で画家になろうとして、一生懸命勉強してきたことが意味がなくなっていく。そういう不安感ですね。音を立てて崩れていくような、ようするにそこから前は何もない訳ですね。そこからは全部自分で、何もかも作っていかなければならないという、そういう戦慄というのは生きてることとぴったりと一致するような精神構造を迫られたということが大きかったですね。またもとに戻って描くということはできなくなりました。もちろん絵画を否定している訳ではなくて、僕は今でも絵画は好きですから、ただ、僕がやろうとしていることは絵画で掬い取ることができない要素があるんですね。特に「関係」というのは実在の空間とか時間とかを非常に重要な表現要素としているので、カンヴァスの中に、あるイメージなり、なにかを描くということではなかなか難しいんです。

【浅井】
当時の芸術や社会の状況、とくに日本もそうですが世界的なものとどう関係があるのでしようか。たとえば、マスメディア化される現代社会をいち早く批判したヨーロッパのシチュアシオニストたちの活動などを意識していたのでしょうか。

【河口】
いや、そういうことも片一方では意識されていたかもしれませんが、むしろ逆というか、自分たちがやってしまってこれは突拍子もないことなのか、いや絶対他の国でもきっと誰かがやっているんじゃないかと、むしろそういうことを探した訳なんですね。そうすると精神的な新しい表現を求める人たちがいて、そういう絵画とか彫刻などの形式をはみ出して、何かを獲得しようとしている人がいて、そういう人たちがいると分かることによって自分たちが決してめちゃめちゃやってるのではないし、全く特殊なのではないという安心感はありましたね。最初は衝動に任せてそういうことをやってしまって、ある影響みたいなのがあってやったというのとはちょっと違うような気がするんですね。そういう意味では「グループ〈位〉」の穴を掘ったということは、美術界の中でもかなり早いとよく言われるんですけど、それはそういう我々の願望に忠実で、そういう行動に出てしまった結果だと思うんですね。

【浅井】
偶然、世界中で同時多発していたということでしょうか。

【河口】
それぞれの意識は多分違うと思うんですね。国によっても違うと思うんですけど。ただそれが、いわゆる絵画や彫刻という形式を取らなかったという点が、共通していることかもしれませんが、それぞれが多様な表現を試みていたと思うんですね。

【浅井】
「グループ〈位〉」としては数年間活動されていたようですが、その後はグループとしての活動はどうなったのでしよう?

【河口】
出入りがあったりしましたけど、最終的に解散というものはしていないですね。ですから今でも神戸へ帰ったら「グループ〈位〉」の人たちと会ったりはしていますが、芸術活動という形は取っていません。これまでに「観測の時間15秒」という映画を作ったり、「存在」という本を出したり、画廊や美術館で必ずしも発表できるような形式ではない、そういうこともやっていましたから、ある人は「グループ〈位〉」の考え方で作品を作るのではなくて、商売をするとか、そういう生き様の人もいますね。「グループ〈位〉」というのは、既成の教育を受けた僕を解放してくれたという意味では、僕にとって有意義だったと思いますね。

【浅井】
70年ぐらいになると「関係」を意識的に視覚化、造形化してゆくようになると思うんですけれど、あの辺りから作品を作るに際して、ある種の方向性が河口さんご自身に見えてきたのではないでしようか。そして、その代表となる作品が「陸と海」であるような気がするのですが。

【河口】
そうですね。ちょうど僕は須磨の海岸に住んでいましたし、もしそこに住んでいなければ、「陸と海」じゃなくて「山と空」とか、何か他のことをやっていたかもしれないですけど、時間との関係とか、それから大きく地球上での潮汐、干潮とか満潮ですね。直接見る事ができない大きな地球の動き、そこの中での見え方の変化、そういうものを意識させるというか自分も意識してみたり、今こうやって話をしてても地球がすごい速さで回転しているとかそういうことを一瞬感じるということも大事なんじゃないかと思うことが陸と海の間に忍び込んでいるんじゃないかな。それと「人間と物質」というテーマで、中原佑介さんが企画した「東京ビエンナーレ」という展覧会があって、そこで発表するチャンスがあったので、ああいうものが作れたというのがありますね。その展覧会がなくても作っていたかもしれませんが、あんなに大きく作ったりとか張り切らなかったかもしれません。分かりませんが。まさに僕の中で「人間と物質」という展覧会に出会ったという事でしようね。そこには色々な芸術家が参加していて、40名でしたかね。僕は現代美術をやっている人というのはそれぞれ非常に共通しているという意識を勝手に持っていたんですが、実際に僕が参加して、それぞれの芸術家というのはいかに違うかというのを徹底的に味わった。ああ、僕は僕の仕事なんだ、それぞれがそれぞれの仕事なんだという。むしろ違いの大切さのような。最初は全体が現代美術という思想を掲げてやっているような意識があったんですけれど、それぞれがそれぞれの切り口で、やっている。それでいいんだというのを味わいましたね。あの展覧会で。

【浅井】
次の節目は、82年に植物を使った作品を制作されたときでしょうか。たとえば中原さんは、千葉市美術館のカタログに載っているテキスト「種子・生命エネルギー・芸術」のなかでそのようにご指摘なさっていますね。

【河口】
植物との出会いというのは植物採集とかで出会っているんですけれども、新たな植物との出会いとして種子と出会ったわけです。種子というのは見ようによっては不思議なものですよね。種の中に生命が含まれていて、リンゴならまたその種の中からリンゴができるという、当然のことなんですけどそこで改めてすごいんだなあという意識を持ったんでしょうね。それが作品に何らかの影響を与えたと思うんですね。

【浅井】
そして86年になると、種を覆っているものが銅から鉛に変化する…。

【河口】
そうですね。それは一つの動機としてチェルノブイリの原発の大事故ですね。もともと銅の板で、覆っていて、種子のエネルギーを観客に伝えるというのかな。人間に伝えるということが鉛で覆うことによってむしろ保護するというか、放射能から守るというか、そこらへんから変わっていったんでしょうね。それは僕自身の意識で、変わっていったというよりは、杜会というか事件というか、それが変えさせたといってもいいと思うんですね。

【浅井】
見る側、とくに評論する側としては、作家のその辺りの証言を取りあげて、いわゆる「エコロジー」や「反核」のような文脈でこの作品を語ることが多いようですね。「エコロジー」に結びつければ、物語としては語りやすいテーマにはなると思うんですが、あの作品の意味は実際のところは「エコロジー」や「核問題」に直接結びつくようなものではないような気がするんですが。

【河口】
僕は反省しているんですよ。「チェルノブイリ」というのを言わなきゃよかったと思うことがあるんですね。それを言ったもんだから、語りやすいというのがあると思うんですが、色々な書き手、評論する人がそれを取りあげる訳ですね。僕は特にチェルノブイリが一つの引き金で、あったかもしれないですけれど、核の恐怖というのは唯一の被爆国ですから、それはずっと意識している事であって、語りやすいエピソードになる言葉というのはあんまり軽々しく使うと、以後はもうそれしか語ってくれないという、そういう意味では浅井さんのおっしゃるように、実はそれだけじゃなくて、語りにくい、言葉になりにくいエピソードとしては成立しにくい、そういう問題が片一方であるんですね。僕自身が軽薄に「チェルノブイリ」という言葉を使ってしまったために、僕の作品を縛っていくというのかな、そういうことが多分あると思うんですね。

今回の出品作品について

【浅井】
さて「封印された時間」展は、河口さんの90年以降の作品から構成されています。作家の活動を単純に年で区切ることはできなこと承知のうえでお聞きしたいと思いますが、90年以降、作品のテーマや制作するときの意識に何か変化はありましたか。

【河口】
とくに年代で区切るという気持はもちろんありませんが、ただ21世紀に向かって行くときに90年代の10年間を20世紀の締めくくり、いわゆる世紀末とみるか、21世紀への準備や予兆ととらえるかによって違いがあると思います。僕はあまり世紀末という感じではなくて、21世紀に向けて開かれて行く時代として90年代をとらえています。いわば21世紀という未来に対応するような仕事ということで、関係という大きなテーマは変わらないのですけれども、未来に向かつて開かれて行く関係を意識しています。

【浅井】
素材の面では、今回化石が初めて登場しますが…。

【河口】
小学校や中学校から化石には出会っていますが、化石というのはなぜか中学校のときからたいへん関心があって化石はたんなる物質なんですが、そこから生きていたであろう生物を想像させる、限りないイマジネーションを与えてくれます。そういう点では一点の芸術作品が想像を与えてくれるのと非常に似ていると思います。化石を生物学などの学問的な関心からではなくて芸術と化石を関係づけて、芸術の文脈の中で化石の持っている想像力を解放することはできないかなと思って化石を使ってみました。 ただ化石そのものはかなりインパクトが強くて、そのまま使うと、もう一度生物学的な関心に戻ってしまうので、美術の一つの表現手段であるフロッタージュ ―― 日本語で言えば擦り絵みたいなものですが ―― をして、表面を写し取って作品の中に組み込むというかたちで、今まで僕がずっと取り扱ってきた「関係」というテーマの拡大を、化石を通じて試みたいと思っています。 それから、「関係」ということは、現実社会との関係は作品に導入しやすいのですが、たとえば1億年前とか、今回は45億年前のストロマトライトの化石のフロッタージュから始まっていますが、そういう生命体である僕が絶対出会えないような過去、途方もない時間、そういうものとの出会いを化石を通じて、とくにフロッタージュを通じて化石に触れることもできる、そういうことで時間的な拡大ができるのではないかと思います。それでおよそ45億年前から第三紀の化石を集めてフロッタージュしています。

【浅井】
種子を使った作品が、種の成長を通して未来につながるとしたら、化石の作品は時間軸としては逆に過去へ向かって関係を拡大していると解釈しても良いでしょうか。

【河口】
良いと思います。別の言い方をすれば、種子の場合は誕生を前提としているのですが、誕生を考えていくときに、当然起こるであろう「死」ということですね。化石というのは「死」の結晶みたいなもので、その「誕生」と「死」というのは、どうしても避けられないという意識があります。化石のフロッタージュをしていて、もうすでに絶滅している種類があるわけです。たとえば我々が絶滅するということを考えていくと、どういうふうに捉えていくか困ってしまうんですけど、地球上から完全に抹殺されている生物がいる。そういう「死」と「誕生」というものの関係を一定の作品の中に凝結するということも可能かもしれませんが、一方で種子を通して「誕生」を、化石を通して「死」を表現しているということですね。あるいは、種子を通して「誕生」と関係し、化石を通して「死」と関係してゆくと言っても良いでしょう。

【浅井】
そのフロッタージュした作品を今度は黄色いボックスの中に収めているわけですが、そこに使われている黄色という色には何か意味があるのでしょうか。

【河口】
いちばん最初は、蜜蝋を使った箱の中に化石のフロッタージュを貼り付けるということだったんですけど、その蜜蝋には晒したものと、未晒しといって、晒していない蜜蝋があるんです。その晒していない蜜蝋というのが、割方黄色っぽいんですね。ところが実際に使うと褪色してしまうんです。もともとの蜜蝋の色を残したいというのが一方にあったんです。そこで、化石が埋まっていたであろう「土」の色として天然黄土を蜜蝋に混入したのです。もう一つ、蜜蝋をなぜ使うかというと、人類は色々な物質を生んでいるのですが、生物や地球にとってよいものばかりを生み出しているわけではないですね。蜂が蜜蝋を作っているわけですが、蜂蜜と蜜蝋を作り出していて、これは地球にとって被害をもたらす物質ではないですね。化石のフロッタージュを通してその蜜蝋の箱と関係づけることによって絶滅した生物の再生ですね。そういうことは起こり得ないとは思っているんですけど、蜜蝋のエネルギーと出会わせることによって再生できないかと思ったのです。それから黄色の意味なんですけど、毎年百本のタンポポの種子を採取して作品にしているのですが、その綿毛になる前のタンポポの花は黄色いですね。それとヒマワリにも関心があって、ヒマワリの花の色も黄色ですが、黄色という色は再生につながっていくと思うんです。これは僕自身の偏った考え方だとは思うのですが、黄色い色、暖色に包まれた化石のフロッタージュがさらに再生ということに繋がっているのではないか、暖かいということに対する関心が、今のところ黄色という色に向いているということですね。

【浅井】
今回初発表のもう一つの作品「関係一拡大」では、新聞を素材の一部として使っていますが。

【河口】
1994年ぐらいから始めているんですけれど、先ほども言いました「関係の拡大」という関心から出ているんです。現実の中から様々な「関係」というものが出ていて、そのなかで芸術とそれ以外のものを関係づける、あるいは見えるものと見えないものを関係づけるという様々な関係づけ方がありますが、その中でも芸術とそれ以外のものの関係をさらに広げていく、いわば芸術における関係のモティーフを広げていくといってもいい。それに一番手っ取り早いものは何だろうと考えたら、それは毎日見ている新聞だろうと思いました。新聞そのものは、社会と人聞を情報を通して関係づける機能をもっていますから。僕の言う「関係」の拡大に繋がるかどうか解らないけど、そこに掲載されている情報が、写真であったり文字であったりしますが、その情報を作品の中に取り入れることによって、「関係」の拡大ができないかということです。ただ、全部を取り上げてしまうとそれはただの新聞になってしまうので、新聞の中から特に関心のある情報としての映像を抜き取って、鉛で種子を覆いますと完全に見えないのですが、蜜蝋に亜鉛華とか天然白亜みたいなものを混ぜると、ちょうど見えるものと見えないものの中間項みたいなものになって、その中で新聞に写されている情報としての映像というのが作品化されていく。その関係を拡大するには無限に続いていくわけですが、体力のこともあるので、今のところ160点作っていて、その中から壁面に合わせて展示する。それ以後の新聞もかなり溜まっていて、僕の関心がある情報が載っている新聞ですが、それを全部重ねてしまって一つの塊にして、情報エネルギーの塊みたいな形にして、紙面を見ることはできないという形で作品化していく、そういう意味で関係の拡大という意識を作品化しているということです。

【浅井】
最後になりますが、90年代後半から21世紀に向けて、今後どのような作品を作っていきたいとお考えでしょうか?

【河口】
多分、今度の水戸芸術館での作品をご覧頂いたら、未来に向かって行く何かを感じ取っていただけると思うんですけれど、例えば種子という生命体と水というのはたいへん関係がありますね。それは生きていくために必要だという。そういう明白な関係や、単に直接そのものを見るような関係ではなくて、例えば目の前に蜜蝋があったり、鉛があったり、水の中にものがあったりしたとき、視線が何かを通過したり、跳ね返ったり、途中で留まったりする。そういう視覚だけでは作品の全体が見えないような、あるいはその作品を全部理解したり体感したりする、そのためには脳の一部をもっと使わなければいけないとか、あるいはその人が持っている色々な感覚を解放しなければいけないとか、記憶みたいなものを導入しなければならないとか、そういうもう少し複雑な関係といえばいいのか、「陸と海」というような明確な関係とは少し違うもの、元々世界そのものが複雑なのかもしれないですけれど、そういう複雑な関係が複雑ではなく味わえるというのかな。そういうこともやっていきたいと思ってますね。それから「誕生」と「死」の問題も、それはあまり悲観的な、あるいは絶望的な意味じゃなくて、必ずいつか滅亡するかもしれないですが、未来を見据えながら、芸術がもっている力を、未来があるという前提で全開していくというのかな。そういう感じでやりたいなと思っているんですけどね。

1998年5月15日筑波大学河口研究室にて


(初出:『河口龍夫−封印された時間』カタログ【会場:水戸芸術館/会期:1998年8月8日〜11月29日】)

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