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未来のTたちへの手紙

河口龍夫

 
 拝啓お元気のことと思います。
 この手紙は、私がTたちのもとに届けた最初の手紙になると思います。私は今、Tたちにこのような手紙が書けることを光栄に思います。
 そして私は、Tたちが信じられない程の力強さで成長している生命力そのものを感じ驚いています。また、その成長が誕生にむかう人間や誕生をむかえた人間の生育にとってはごく自然なことであることに再度驚きます。とは言っても、まだ言葉は話せないし、字は読めないことは充分に解っているにもかかわらず、私はTたちにどうしてもこの手紙が書きたくて一筆したためました。

 Tたちがこの地球という星で誕生をむかえたことを、私は心から嬉しく思うし、心から祝いたい気持ちでいっぱいです。
 そんな気持ちになると同時に、地球と言う星について改めて考えてみる機会になりました。それは、私が地球がTたちが生まれるに相応しい星であったかどうかを考えてしまうことです。つまり、いつもより私が巨視的な視点に誘われこの地球を考える機会を与えられたと言うことです。それとともに、人の未来についても考える機会にもなりました。今まで地球についても未来についても考えなかったわけではないのですが、Tたちが生まれ、Tたちが住むことになった地球と、Tたちの生きてゆく未来とを重ね合わせて考えるようになりました。そのことにより、Tたちと私が共に生きる地球での未来の楽しさも思いをめぐらしたり考えたりしないわけではないのですが、誕生したばかりで精神的にも肉体的にも無力に等しいTたちが不安なく生きられるような地球の、そして、人間の未来を考えてしまうのです。私にとっては不可能かもしれないことですが、Tたちにとって不安のない未来が用意できないかと思ってしまうのです。そんなことを思うのは、Tたちが未来そのものであるとすれば、今の私は少し未来で大部分が過去にしかすぎないからです。そのことの自覚が、私が存在しない死後の未来を思考させるのだと思います。そのような私にとっては、貴重な機会を与えてくれたTたちの誕生に感謝の気持ちを告げるとともに、私のことも知って欲しくて手紙を書いています。
 この星には、実利的なものや事が発達していますが、反面、芸術という非実利的に見える面白い営みもあります。人聞が存在したどの時代にも芸術のようなものがあったようです。例えば、洞窟に描かれたものやことも、建築の壁や日常品に描かれたものやことも、さらに、人体や動物をモチーフにして造形された立体のようなものも、それを絵画や彫刻と言い、人間の精神に関わるものを芸術と呼んで人の大切な営みとしてきたようです。芸術をTたちに一口で説明するのは難しいことです。あえて言えば、芸術は人間の精神に何らかの作用をおよぼすもののようです。その作用は、例えば精神を高揚させたり、未知なる感覚を享受させたり、好奇心を駆り立てたり、心を健康にさせたり、快と不快を同時に感じさせたり、コモンセンスからナンセンスへの面白さを感じさせたり、日常を超えた非日常を知覚させたりしますが、とりわけ、私を精神の冒険に誘い、私は誘われます。その意味では、芸術は精神の冒険のような営みと言えると思います。さらに言いますと、芸術そのものが人聞が見つけることができた精神の大冒険のようにさえ思われます。このように芸術に私がこだわるのは、実は紹介が遅くなりましたが、私はその芸術に深い関心を抱く芸術家のひとりだからです。

 ところで、未来についてですが芸術家としての私が未来を思考した作品に「関係一未来」という作品があります。人の寿命より長い樹齢何百年、時には何千年と言われる生きた樹木に銅製の輪をはめ、その直径まで樹木が成長するであろう未来の時間を想像するような作品です。この作品で大切なのは、銅製の輸の直径が未来において成長した樹木の直径と推定した年代とがぴったりと一致していることにあるのでは必ずしもありません。大切なのは自分が生きることが出来ないであろう未来について想像したり思考すること自体であり、生きることが出来ないであろう未来と現時点で関係することにあります。
 そのほかに未来をめぐる作品をあげてみましょう。例えば「DARKBOX」という作品があります。闇を鉄製の容器に封印した作品で、最初1975年に制作しました。1975年に闇を封じ込めたのです。封印した場所が神戸だったので、その闇は神戸の闇だったといえますが。1975年の闇が現実の闇のまま過去の闇となり、さらに、未来にむかって恒久的に保存されたとも言えます。
 芸術の中でも視覚に関わる芸術を美術といい、その美術を視覚芸術とも言います。しかし、私は必ずしも美術は、五感のうちの視覚のみを対象化したのではないのではないかと考えます。その立場から、私は、美術を視覚の呪縛から解放という精神の冒険に旅立ちました。つまり、「見えるもの」を重要視する美術からの解放といってよいでしょう。ある意味では闇と言う「見えないもの」をさらに見えなくすることにより視覚の問題を中心的とする美術思考に風穴を開け、「見えないもの」と「見えるもの」の扉を同時に開け放ち、風通しよく行き来できるようにしようと思います。そんな思いにいたったのは、この世界は、「見えないもの」と「見えるもの」の関係(時には無関係)で成立しており、その総体であると思うからです。
 今年、「DARKBOX 2007」を制作しました。さらに、未来を思考して「DARKBOX 2040」と「DARKBOX 3000」を制作しました。制作したと言っても、今できることは闇の封印をするための鉄製の容器を制作したという事です。実際の制作は現実の闇の中で行われます。「DARKBOX 2007」は美術館の展示空間で今年の神戸の闇を封印しようと思っています。しかし、「DARKBOX 2040」と「DARKBOX 3000」の本当の制作は、2040年と3000年に闇を封印することにより制作が完了するのです。2040年の闇も3000年の闇も例え未来に光がなくなったとしても、闇がなくなるとは思えないのですが、2040年に闇を封印する時に、私自身が生きているかどうかが不明です。「DARKBOX 2040」は私がその時に奇跡的に生きており、しかも体力も気力もあれば2040年の闇を封印したいと望んでいます。しかし私が生きていなければTたちに闇の封印をお願いします。2040年の闇の封印をしてrDARKBOX2040jを完成させてください。ところが「DARKBOX 3000」になると、私は勿論、Tたちもこの世には存在しないことになります。この時点では、私やTたちの問題ではなくなりその時代に生存している生物の関心に委ねることになるでしょう。その時点では、人類そのものが生存しているかどうかさえ不明かもしれないからです。いずれの作品も、現時点で未来と関係を持つという発想に貫かれてはいます。
 同じように、Tたちが誕生したそのことにおいて、私に、私が生きられない未来と現時点で関係させてくれるような気がするのです。そのことの思考の過程で、はたと気がついたことがあります。人が誕生し、そして、成長してゆき、やがて人のために何らかの業績を残してゆく。その生きざまや業績が評価に値するといった価値観も当然ありますが、その前に、誕生したそのこと自体がもっとも純粋な評価に値する事柄なのではないだろうかということです。生命誕生への全面的な肯定がまずあることが前提でそこから始まるはずなのです。当然と言えば当然のことを再認識しました。したがって、人はいかなる理由があろうが誕生を脅かしてはいけないのです。
 私が種子に関心を奪われ、種子による作品を制作し続けるのは、誕生の予感や可能性を種子がその内部に秘めているからなのだと思います。Tたちの誕生のおかげでそのことにあらためて気がつき、再確認し確信をもつことができました。今年、ひまわりの種子を大量に空間から落下させ、生命体の堆積した形態をつくり、同時に作品あるいは何かを種子で封印してみようかなとも考えています。

 Tたちが誕生した地球は、残念なことに誕生や生を脅かすような色々と問題のある星でもあります。そのほとんどの問題は人間自身がおこしているのです。その問題は、戦争をしたり、地球を破壊できる程の核兵器を所持していたり、人種差別があったり、テロがあったり、さらに、人よりも経済効果優先の社会構造であったりで、そのため、二酸化炭素の大量の排出による地球温暖化がおこり地球環境が破壊されたり、いや、すみません。生まれたばかりのTたちにこんなことを言うつもりはなかったのですが。私が常に不安に感じているものですからつい筆が滑ってしまいました。
 不安と言えば、ただいま制作している作品「関係―浮遊する蓮の船」は人2、3人が乗船できるおおきさの船に、種子を内包したままで鉛で封印された夥しい数の蓮が積み込まれて、その状態で船は空間に浮遊し続けます。観客はあたかも水中からその船を見上げるような構造に展示されます。その船は、両側が先端に見え先行しているのか後退しているのか判別できず、どこに向かっているのか不明に見えます。あたかも不安の海を漂流しているかのようです。それとも、未来の海に向かつて航海する現代のノアの箱舟かも知れません。何故なら、船には命の隠喩としての種子が乗船しているからです。さらに、船には行路を見定めるための磁石盤と温暖化の海に備えて温度計を密かに隠しもっているのです。やがて、命の種子は、鳥になってTたちの生きる未来へと飛翔するでしょう。

 すでに、この星は不安が尽きない問題があると言いましたが、それでも、それらの問題を凌駕するかのように、人は未知なる可能性もあり、人の優しさも、これまで人が築いてきた歴史や文化も、そのほか、人の精神の美しさや輝きへの希求もあり、パンドラの箱に残った希望もあります。決して捨てたものではないと思います。それに、私の大好きな芸術もあります。だから、命ある限り生きてみる価値のある星だと思います。我々は人類の子息であり、娘であり、孫であり、曾孫でもあると言う現実的な必然性の上に生きているようです。

 末筆になりましたが、生命が誕生することの素晴らしさを再認識させてくれたTたちに感謝をこめながら、Tたちの健やかな成長と素晴らしい未来が訪れることを心から願いつつ筆をおきます。

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